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コラム メイセイオペラを後世に伝えるために(お知らせあり)

今年7月1日に亡くなったメイセイオペラについて、その直後から10月まで不定期に追悼コラムを連載しておりました。今回、その追悼コラムを加筆・再編集の上、1本の記事(コラム)にまとめたものです。少し長いですが最後にお知らせもありますので、どうかお付き合いください。

・羽ばたくまでの紆余曲折

メイセイオペラがデビューしたのは、1996年7月のこと。デビュー勝ちを果たして競走馬人生をスタートさせたが、そのデビューの地はこの年にオープンした新盛岡競馬場“ORO PARK”だった。

思えば旧盛岡競馬場の歴史に終止符を打った1995年、怪物と呼ばれたトウケイニセイが競馬場を去り、岩手競馬から偉大なヒーローが不在となった。そんな象徴的な年に岩手競馬でデビューしたのは、今振り返ってみればメイセイオペラという馬が持っていた“星”だったのかもしれない。

その後伸び悩んだ時期もあったが、年が明けると世代を牽引する立場に上り詰めていた。そして新潟競馬場で行われた東北ダービー(東北優駿)コースレコードで制すると、全国から注目を集める存在になり、全国の強豪に相対すべくユニコーンステークス(当時は10月開催)に照準を合わせた。

しかしその調整のさなか、馬房内で前頭骨を骨折するという、前代未聞のアクシデントに見舞われた。懸命な治療で復帰は叶ったものの、アクシデント前の走りを取り戻すことができず、このまま終わるのではないかと感じた人も少なくなかった。

そんな半信半疑の中、大晦日に行われた桐花賞復活を告げる勝利を収める。この1戦で関係者に多くの勇気をもたらし、改めて全国の舞台を目指すことになったが、ここまでの紆余曲折がその後に訪れる感動を増幅させたのかも知れない。

・ライバルと死闘を繰り広げた1998年

古馬となった1998年、力試しを兼ねて川崎記念に遠征すると、ここで初めて後に最大のライバルとなるアブクマポーロと顔を合わせる。レースは果敢に逃げてアブクマポーロの4着に終わったが、十分な手応えを持って6月の帝王賞に臨むことになる。ここでもメイセイオペラは逃げの手に出たが、最後の直線で内からアブクマポーロに交わされてしまい、結果3着。だがこの時の走りで、多くのファンからライバルとして認められることになった。

その後、マーキュリーカップ岩手所属馬初の統一グレード制覇を成し遂げると、マイルチャンピオンシップ南部杯で遠征勢を迎え撃つことになった。そしてこの舞台には、前年覇者のタイキシャーロックらの強豪に混じり、アブクマポーロも参戦。一気に全国から注目を集める1戦となった。

16時5分にゲートが開くと、帝王賞と同様に先頭に立って後続を引っ張っていく。午前中に降った雨の影響で不良馬場となっていたダートコースを軽快に飛ばすと、後続は徐々に引き離されていった。直線に向いてもその逃げ脚は衰えず、アブクマポーロタイキシャーロックもその差を詰めることは出来なかった。そのまま激しい2着争いを尻目に、メイセイオペラが後続に3馬身差を付けて、ついに統一GⅠのタイトルを手にしたのである。

結果的にこの年の暮れに行われた東京大賞典が、アブクマポーロとの最後の対決になった。ここはアブクマポーロに凱歌が上がったが、ライバルの存在がお互いの成長につながったし、まだ黎明期だったダート競馬が注目された意味でも大きかった。そしてその後のダート競馬の歴史を紐解いても、この2頭の関係を上回る世代を超えたライバルは、果たしていたのだろうか

・栄光と苦悩・・・そして引退式

1999年に入ると、初戦にフェブラリーステークスを選択。約1年半前にその舞台に立てなかったJRA東京競馬場に降り立つと、好位から直線で力強く抜け出す教科書通りの競馬を披露し、2つ目の統一GⅠタイトルを手に入れた。併せて地方所属馬による、初の中央主催GⅠ競走制覇という偉業も成し遂げたのである。

さらに帝王賞も圧勝し、名実ともにダート界の頂点に立ったが、ここから苦悩の時期を迎えてしまう。連覇を目指したマイルチャンピオンシップ南部杯の直前に脚部不安で回避すると、東京大賞典ではまさかの11着。年が明けて2000年を迎えると、フェブラリーステークスでは一旦は先頭に立ちながら4着に終わり、連覇を逃した。そのままリズムを取り戻すことができず、この年のマイルチャンピオンシップ南部杯回避するのに併せ、現役引退を発表することになったのである。

そして2000年11月19日。漆黒の闇に照らされた“ORO PARK”で、メイセイオペラの引退式は、多くの「ありがとう」に包まれる中で行われた。生涯成績35戦23勝。うち統一GⅠ3勝を含む統一グレード4勝は、勝ち星の割に少なく映るが、それは地元の競馬も大事にしてきたから。最後のレースとなった2000年のみちのく大賞典で、同レース初となる3連覇を達成したことは、長年岩手競馬を愛する人にしてみれば、全国の舞台で活躍しただけでは得られない感動があったと思っている。


・その血を伝える者として

2001年から種牡馬生活に入ったメイセイオペラだったが、まだダート競馬で活躍した馬の評価が低かった時代。なかなか良質な花嫁を集めることができなかったが、それでもジョイーレ(2006年の姫山菊花賞など重賞3勝。統一グレードの兵庫ジュニアGP2着)を筆頭に、地方競馬で4頭の重賞勝ち馬を輩出し、一定の存在感を示すことができた。

中でも個人的に思い入れを持っていたのがジュリアである。逃げ切りか大敗かという典型的なフロントランナーで、強気な逃げで波乱を演出することも多かった個性派。実は馬券の相性が良かった馬で、2008年のビューチフル・ドリーマーCで、3連覇を目指したサイレントエクセルらを相手に逃げ切り勝ちを収めた時も、千載一遇のチャンスと感じて単勝馬券を手にしたことを今も忘れることができない。

しかし種付け頭数は年々減少し、初年度に83頭を集めた花嫁は、5年目からは1ケタに。そして2006年を最後に韓国に輸出されることになった。ただこれは、大きな期待を受けて海を渡ったもの。事実、韓国で初年度産駒がデビューした2010年に、ファーストシーズンサイヤーランキングで第3位となるなど、産駒はコンスタントに活躍。亡くなった今年も現役種牡馬として務めを果たしていたことは、それだけ韓国の関係者から認められ、そして日本での実績に敬意を払っていたことを示していると思っている。

・栄光を永遠に語り継ぐために


先月、2017年のダート統一グレードの格付けが承認された際、メイセイオペラが初めて手にした統一グレードタイトルであるマーキュリーカップ“メイセイオペラ記念”のサブタイトルが付されることが明らかになった。この件について主催者(岩手県競馬組合)からの発表がないため、新年度のスケジュールが発表される際にこの形になるのかわからないが、ようやく引退時から待望されたメイセイオペラの名を冠した競走が創設されることになる

このような形でメイセイオペラを称え、語り継ぐことは、ダート競馬の歴史を後世に伝えることでもあり、また岩手競馬の発展を願うことにもつながる。現在進んでいる、メイセイオペラの記念碑を水沢競馬場に建立するプロジェクトも、根本の部分でつながっているはずだ。

だが形として残すだけではなく、同じ時間を共にし、感動をわかちあった私を含む人々が、それぞれの言葉で未来の競馬ファンに伝えていくことも、大事にしたい。“想い”を伝えるのは難しいことではあるが、栄光を永遠のものとするために1番必要なことなのかも知れない。これをお読みになられている皆様にも、メイセイオペラに対する想いをお持ちの方がいらっしゃると思うが、是非ともご自身の言葉で想いをつなげてほしいと思っている。

<メイセイオペラ記念碑建立委員会について>

最後に改めて、メイセイオペラが岩手競馬に遺した功績を称えることを目的に、記念碑を現役時代に所属していた水沢競馬場に寄贈・建立することを目指す「メイセイオペラ記念碑建立委員会」の活動について紹介したい。

この委員会では、メイセイオペラのポストカード(3枚1組500円)の収益金および寄附金を積み立て、それにより2017年中の記念碑建立を目指すとしている。これまでもJBC当日の川崎競馬場など、各地でポストカードの販売を実施しており、私自身もささやかではあるがポストカードの購入などで協力をさせていただいている。

そして東京大賞典当日の大井競馬場ではポストカードの販売と併せ、チャリティオークションが実施され、メイセイオペラゆかりのお宝が出品される。この出品内容をはじめ、委員会の設立趣旨などの詳細については、事務局を担当する競馬ライターの井上オークス氏が開設したブログ等をご参照いただきたいが、ご興味のある方は是非とも足を運んでいただきたいと思っている。

委員会ブログ
http://ameblo.jp/meiseiopera2017/
同フェイスブック
https://www.facebook.com/meiseiopera2017/

by hirota-nobuki | 2016-12-23 21:00 | Comments(0)

地方競馬・ダート競馬の発展を願ってやまない博田伸樹(ヒロタ・ノブキ)です。この場を通じて地方競馬・ダート競馬により興味を持つ人が1人でも増えてほしいと願っています。 twitter:@HirotaNobuki


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